ドヴォルザーク スラヴ舞曲集より

ドヴォルザークはチェコの首都プラハの北にあるネラホゼヴェス村に1841年に肉屋兼旅籠屋の音楽好き家族の家に生まれました。趣味としてヴァイオリンを6歳から始め、肉職人の修行を修めつつも音楽の道捨てがたく、16歳からプラハの音楽学校にて学び、卒業後はオーケストラでヴィオラ奏者として音楽の道を歩み始めました。そこでボヘミア音楽の祖スメタナの薫陶を受けつつ、時代的にはスラヴ民族復興運動の高揚を身に浴びて、自身の音楽創作を広げていき、20代より作曲活動を開始。1873年には賛歌「白山」の初演が絶賛され、プラハの音楽界で注目されます。 ブラームスはドヴォルザークの非凡な才能に感嘆して、有名なジムロック音楽出版社を紹介、同社よりスラヴの舞曲集作曲を依頼され、ボヘミアの代表的な舞曲である「フリアント」「ソウセッカ―」「スコチナー」など民族舞曲の特性を生かしつつ、実に生き生きとした芸術的舞曲が創作されました。この曲集の大成功によりドヴォルザークはボヘミアを代表する世界的作曲家として有名になりました。

  第1集第1番は激しいフリアントの3部形式。冒頭から熱烈な主題で舞い出でます。踊りは強弱をつけて高揚、中間部は陽気でかけ回る様子が展開し、コーダでは前半の舞が熱狂的に突進して終えます。 第1集の大成功により、ジムロック社は次回作を計画もドヴォルザーク自身は難色を示していましたが、1886年意欲を持って第2集を作曲、これは広いスラヴ地域からの舞曲を取り入れて多彩な色合いの曲集となりました。  第2集第2曲は中でも最も有名で、ソウセッカ―の非常に優美な曲です。冒頭、憂愁と感傷のただよう甘美な旋律が歌われ、これが豊かに展開された後に。明るい表情をみせます。落ち着いた優雅な旋律が反復された後に、冒頭の旋律が修飾されて歌い上げられます。  第1集第8番は再びフリアントの3部形式。強烈かつ熱狂的な主題が渦巻きつつ奏されます。中間部は爽やかな、かつ憩いのひと時、優美な対旋律が現れます。コーダは冒頭の激しさをもって展開。次第に静まってほのぼのした旋律がよみがえった後に、冒頭動悸できっぱりと締めくくられます。