マーラー 交響詩「葬礼」

ウィーン国立歌劇場監督として、世界最高の指揮者として音楽界に君臨し、声楽曲、そして交響曲歴史の総決算ともいうべき、第1番から第9番、第10番(未完)、大地の歌他などを世に送り出したグスタフ・マーラーですが、その生まれはボヘミアの小村カリシュト村で、1860年7月酒造業を営むユダヤ人の家に生まれました。幼少より音楽好きで教会合唱団に入り、ピアノに親しみます。その音楽的才能を開花させようと、父親が支援し、15歳でウィーン楽友協会音楽院に入学。ピアノや作曲をを学んだ後、23歳からヨーロッパ各地の歌劇場指揮者また楽長として、頭角を現します。1888年にはブタペスト王立歌劇場の芸術監督に就任、前途をみすえつつ指揮活動に全力で取り組むとともに、作曲活動も旺盛で。同年には交響曲第1番を書きあげています。そしてその直後から次作にとりかかっています。  
 第1番がまさに「巨人」たる英雄の生涯を音楽で創造したのち、第2作として、「生と死、その復活」を主題としてさらに巨大な音楽を創造しようと考えたのは、19世紀末の政治、思想、文化、そして音楽状況から彼にとっては自然なことだったのかもしれません。直接的にはマーラーの親友にして思想家、作家であるリピナーがポーランドの大詩人ミツキエーヴィチの代表作「葬礼」(冥界にある死者の魂を清め、敬い祭るスラヴの風習をうたう叙事詩)を訳して出版し、マーラーに紹介したことが大きいと言われています。その音楽は交響曲に発展させることを見据えて作曲されましたが、高名な指揮者ビューローに意見を求めたところ、否定的評価。また交響詩「葬礼」として出版をこころみるも失敗し、作曲は中断。1894年に交響曲第2番[復活」を完成させるにあたって、この因縁の作品を改訂し、第1楽章として組み込みました。そのため、交響詩「葬礼」は長く忘れられた作品となりましたが、約100年後の1980年代に再発見、初演されるのです。  
 冒頭、緊張感に満ちたトレモロを背景に低弦が深刻な主題を劇的に奏し、これが全曲の中核となります。激しさをまし、全奏により強烈な音楽が鳴り響きます。一旦収まると弦楽器による祈るような第2主題が優しく歌われます。ここから第1主題を受け継いだ低弦リズム主題と、祈り、憧れの第2主題により暗と明の、生と死の相克が非常な緊張感をもって展開します。後の「復活」との大きな相違は「葬礼」では中間部にコラール風の旋律が受難的な悲哀をもたらしていますが、交響曲に改訂される際、エピソードごと削除されています。後半の展開では死との闘いへの問いが、グレゴリオ聖歌の「ディエス・イレ(怒りの日)」として象徴的に金管によって奏されます。(これが解決されるのは、「復活」最終章の「最後の審判」が描かれるまで待たねばなりません。)最後は葬送行進曲となり、消え入りそうなところ最後の一撃が響きわたり、曲を終えます。 この曲にマーラーは「この世の生とは何か?死とは?われわれに不滅は存在するのか?こうした生、こうした死にはどんな意味があるのか?」問いかけを記しています。これに彼は「復活」交響曲で回答を提示することになるのです。